「世界のOZAWA*」小澤征爾さんが2月6日にお亡くなりになった。ずいぶんお悪いとは聞いていたが、巨星落つ!である。(*たぶん日本での呼び名かも・・)
2005年頃であったか仕事で乗った地下鉄日比谷線の車内で、偶然ドアの脇に立っていた小澤さんを見つけ、「小澤さんですよね、私ファンなんです」と声をお掛けしたところ、思いがけず「今体を壊しててね、聖路加病院に通ってるんですよ・・。それに松本にも通ってますよ」なんて自分から自然に答えが返ってきた。なんて気さくな方だったことか、世界的な音楽家なのに庶民の地下鉄に乗り、ひとりのファンにも気軽に話をしてくれたことを思い出す。
また2010年頃だったか、旅行で出かけたウイーン国立歌劇場を案内してくれたたぶんボランティアの婦人から、「この部屋でOZAWAが皆さんとワインを飲んで笑っていました」なんて案内してもらったことがある。小澤が2002年から2010年までウイーン国立歌劇場音楽監督時代のことである。現地の方々に愛されていたエピソードである。ウイーンフィルから名誉団員の称号を受けてもいる。
小澤さんといえば、2002年のウイーンフィルのニューイヤーコンサートで指揮した。業界では指揮者のことを「棒振り」あるいは「フリボー」というが、彼の場合は以前から指揮棒を持たず素手スタイルであった。ちょっと猫背で顔と手の動きで行う情緒たっぷりの表現は、西洋音楽の東洋人による音楽融合の象徴でもあった。20代でスクーターに乗ってヨーロッパで音楽修業し、カラヤン先生やバーンスタイン先生に師事し、多くの一流オーケストラと共演して、世界のプレイヤーと共演してきた。ベルリン、ウイーン、ボストン、ニューヨーク、シカゴの一流オーケストラは皆賛辞を贈った。ただNHK交響楽団とは仲たがいしていた時期もあったようだ。ムラ社会の典型例なのか日本人同士ではうまくいかないのかもしれない。
晩年は恩師の齋藤秀雄先生を記念したサイトウ・キネン・オーケストラや水戸室内管弦楽団等で若い音楽家を育てた。冒頭地下鉄内の「松本・・」はサイトウ・キネンの本拠地である。
世界の音楽家から日本でのコンサートが楽しみという言葉をよく聞くが、優れた音楽家と聴衆が育ってきたからこそであり、OZAWAの音楽性や人柄も一因かしれない。
合掌
2024年2月 三宅 仁